2017年04月19日

地方創生担当相の暴言の背後にあるもの

 地方創生担当という奇妙な役職の閣僚が「暴言」事件を起こした。

 この件で重要なことは、政府の閣僚が「博物館・美術館に“学芸員など居なくて良い”」と公言したことであり、二条城で生け花が許されたかどうかなどという瑣末なことではない。
 この人物は、「博物館や美術館の成果・評価を決定する最大の要因は“学芸員”という専門職の質と量である」という先進国なら当然の常識を、真っ向から否定したのである。

 実は、日本ではこのような「思想」が意外に広く共有されている。
 おそらくは、15年戦争時と戦後の高度経済成長期に形成されたものと思われ、戦争中の「進め一億火の玉だ!」、高度成長期の「24時間戦えますか?」という言葉に現れるような価値観で測って、体力の劣る者・戦闘意欲に欠ける者等が就く価値の低い職種、と決めつけたことが未だに残存しているのだと考えられる。
 学芸員にとどまらず、図書館司書、保存文書等の管理専門職(アーキビスト)などが、一様にこの“差別的視線”の対象となっている。

 問題は三つの側面を持つ。
 第一は、そもそも博物館・美術館、図書館、文書館といった機関が、国家・国民の歴史と未来にとって極めて大切なものであるという基本的な教養の欠落である。
 第二には、それらの機関で中心となって働く専門職の人々に求められている高度な専門性、その仕事の重要性をまったく認識していないことである。
 そして第三には、それらの機関が「対象とする文化財」と「専門性をもった職員組織」と「必要な設備・機能を備えた施設」という3つの不可欠な要素で構成されるという認識の欠落である。
 これらの無知・無教養は、大阪の橋下が世界的に評価の高かった「国際児童文学館」の専門職員を解雇し、資料だけを府立図書館に保存させ、九州某市の市長が市民の公共財産であるべき公立図書館を新古書店企業に丸投げ(挙げ句にその関連企業に天下った)した事例などに如実に現れている。

 遠く遡れば、本来上記の3要素を統合した意味である、ライブラリー、ミュージアム、アーカイブという名称に、図書、博物、文書と全て「建物」だけを指すかのような訳語を当てたことから始まっているのかもしれないが・・・。

 メディアは相変わらず「生け花ができたか?」といった瑣末なことにしか目を向けず、この閣僚が「学芸員という専門職の存在そのものを否定した」事実には目を向けようとしない。
 大手メディア企業のサラリーマン記者たちも、実は同様の差別意識を隠し持っているのかもしれない・・・。

posted by Cheshire Cat at 02:08| Comment(0) | 日本の社会

2016年12月09日

留学生と言う労働者の存在

 世の中のルールやそれに絡む出来事には「本音と建前」があると言うが、今世の中で進行していることの中には、本音と建前などというレベルで片づけることのできない、片づけてはならないことがいくつか起きている。その一つが「留学生という労働者」の存在である。
 12月7日発行の沖縄タイムス紙に次のような「社説」が掲載されている。

社説[留学生旅券預かり]法令順守の意識高めよ(抜粋)
<アジアなどの外国人留学生を対象にした本島南部の日本語教育機関(日本語学校)が、学生の旅券(パスポート)と健康保険証を預かり、管理していたことが分かった。ネパール出身の学生に対しては、一時、入管難民法で本人の常時携帯が義務づけられている在留カードも取り上げていた。>
<法務省の福岡入国管理局那覇支局も「たとえ本人の同意があったとしても、学校が旅券や在留カードを預かるのは人権侵害行為にあたる」と指摘する。>
<学校側は「失踪や犯罪利用を防ぐため」だと言い、「きれい事ばかりでは学生の管理ができない」と反論する。>
<昨年だけで県内の日本語学校から50人以上の学生が失踪したといわれる。
 留学ビザの期限が切れた過去1年間の不法滞在者の発生率が全学生の5%以上の日本語学校は、法務省から「非適正校」の烙印(らくいん)を押され、ペナルティーとして「適正校」と異なる扱いを受ける。
「数人の行方不明者が出ると(学校経営にとって)死活問題になる」のだという。>

 なかなか的確に、学校側の「本音」と「現実に起きていること」をとりあげている。ところが、記事の最後が以下に示すような呆れるほど見事な「建前論」で締めくくられているのが何とも残念である。
<留学生は大学や大学院、高等専門学校、日本語学校などに通いながら、週28時間の範囲での資格外活動(アルバイト)が認められている。これらの留学生が安心して教育を受けるには、宿泊施設や相談窓口の充実など受け皿の整備が欠かせない。>

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/74605

 教育現場の経験的印象では、アジアからの留学生は大きく3つのタイプに分けられるように思う。
 タイプAは、言うまでも無く真面目で優秀な学生たちである。
 一方タイプBは、始めから規定を無視してアルバイトを掛け持ち、明らかに勉強よりも「労働」が生活の中心になっている学生たちである。
 そして、その移行形であるタイプC。
 C1は、当初はAであったのに、母国からの送金や日本国内での支援が何らかの理由で途絶・縮小したことで経済的に行き詰まり、心ならずもBに移行してしまう学生たちである。
 またC2は、意欲をもって来日したものの、勉強に付いて行けなかったり学校生活に馴染めないといった理由で次第にドロップアウトし、アルバイト中心の生活になる学生たちである。

 社説で言う「受け皿の整備」が有効なのは、明らかにタイプAとタイプCであり、タイプBの学生に関しては問題の本質がズレているとしか言えない。
 何故かと言えば、タイプBの学生達の殆どは「元々働く(金を稼ぐ)ことを目的に来日している」からである。また、彼等を「労働力」として受け入れ、 "活用" している労働市場が存在するからである。
 政府や教育機関の「建前論」の陰で、タイプBの留学生達は一定の(無駄な)学費を自ら学校に納め、さらに「学生バイト」ということで、低賃金の社会保険も適用されない状況で、現実には立派な "戦力" として働いているのである。
 このような「留学生労働市場」の存在は、実態として留学生ビザを利用した非正規労働者の輸入となっているのであり、国全体として見れば、一種の労働搾取であるとさえ言える。

 アルバイト漬け(確信犯)の留学生や、集団で失踪する留学生を増やさないための対策は、正反対の2つしか無い。
 第一は、ハードルを上げてタイプB(化する可能性のある)学生を "入国させない" ことである。しかしそれは留学生を増加させるという国の基本方針にも反することであり、実際そんな「判定」をしている余裕はどこにもない。
 第二の方法は、特定の専門技術をもたない若者でも「労働者として正規に入国させ・管理する」制度を創設することで、彼等を本来の「留学生」とは分離することである。
 国際的な批判と競争の下で改善を迫られている「企業実習生」制度も含めて、外国人労働者の受け入れについて、現実を直視した実践的かつ真剣な検討が必要となっている。
 
posted by Cheshire Cat at 23:56| Comment(0) | 日本の社会

2016年09月19日

ボルトの一人称は「俺」?「僕」?

 9月18日の Withnews 記事。8月16日の朝日新聞に掲載された、五輪陸上競技の100mを3連覇したウサイン・ボルト選手の "No.1ポーズ" の写真に付けた見出し「俺を超えられるか」を題材に、「俺」か「僕」かと論じた記事である。
 なかなか良い点に注目した記事だと思う。
 しかし、内容は言語学者まで動員しながら最終的に「キャラ」の問題として片づけるなど、あまりにも「軽い話題」扱い、と言うより「臭いものにフタ」扱いの酷い記事である。

 例えば、K教授は「俺」について "力強い・男性的" なイメージで使われるとだけ説明しているが、これはあくまでも "母語話者" である人物が自発的に用いる場合の話である。
 他言語からの翻訳においては、それは訳者による "当てはめ" の結果に過ぎず、そこに一種の決めつけ・差別意識が介入してしまう可能性に触れようとしないのは奇妙である。
 また記者も、タイガー・ウッズだけの例をもって「必ずしも人種とは関係しない」と "断定" しているが、本当にそう言い切れるのだろうか。
 そもそも、ボルト選手が圧倒的な肉体をもって国際大会で勝ち続け、メディアに対するサービス精神も豊かな人物であることは確かだが、彼が特に「男性的」で「陽気」な人物だというのも単なる "決めつけ" に過ぎない。
 役割語についても無条件に肯定的に述べられているが、それが差別や身分格差を助長する面をもつことを無視するべきではない。

 世界チャンピオンの言葉を、街のチンピラもどきの下品な言葉に "変換" する行為には、日本のスポーツ報道に特に著しい選手へのリスペクトの欠如、そして、発展途上国の選手・アフリカ系という人物に対するステレオタイプや差別意識が明らかに現れている。
 そのことへの自覚も自戒も全くない、能天気な記事である。

ボルトの一人称は「俺」?「僕」? しっくりくるのは
…… イメージ作る役割語の活用法

withnews 9月18日(日)8時0分配信


 リオデジャネイロ五輪で、3大会連続3冠を達成した陸上のウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)。メディアがボルト選手を邦訳する際、一人称を「俺」と訳すことが圧倒的に多いのです。果たして、なぜなのでしょうか。なぜ「僕」ではないのでしょうか。(朝日新聞東京編集センター記者・軽部理人)

3連覇のボルト「俺を超えられるか」
 英語での一人称「I」。男性が使っている場合、それを「俺」と訳すか「僕」と訳すか、はたまた「私」と訳すかは、訳者次第になります。
 例えば、8月16日の朝日新聞には、100mで優勝したボルト選手が、ゴールした直後に人さし指を胸の前で掲げ「No.1」のポーズをしている写真が掲載されています。その写真の上には、こう見出しがつけられています。
   「俺を超えられるか」
 見出しをつけた男性編集者(37)によると、ボルト選手の力強さを示すような見出しをつけたかったとのこと。4年前のロンドン五輪の際、ボルト選手の記事に付いた「俺は伝説になる」という見出しが強く印象に残り、今回の見出しに至ったということです。記事の本文中では、一人称は使われていませんでした。
 編集者はこう言います。「『僕』や『私』も考えたけど、ボルト選手といえば『俺』だった。他の言葉は考えられなかった」

調べてみたら、やっぱり多かった「俺」
 ほかのメディアが、ボルト選手の一人称をどのように訳しているのか調べてみました。
 ボルト選手が3大会連続3冠を達成した日、海外メディアによると、ボルト選手は「I am the greatest」と述べています。直訳すると、「俺が最強だ」といったところ。そのコメントに言及のあった社は、記事中で以下のように訳しています。

朝日新聞:「オレは最強だ」
東京新聞:「おれが最強だ」
サンケイスポーツ:「ほら見ただろう。I’M THE GREATEST(おれが最強だ)!」
スポーツ報知:「俺が最強だ! 自分を誇らしく思う」
 「I am the greatest」に言及はありませんでしたが、同じ日の記事で毎日新聞は「俺にバトンが回ってくると、それが金メダルに変わる」としています。やっぱり、多い「俺」。
 ちなみに朝日新聞では、「俺」だけでなく「僕」や「私」訳も登場しています

体操ベルニャエフ選手は「僕」
 もちろん、スポーツ選手の邦訳全てが「俺」というわけではありません。
 体操の内村航平選手と個人総合で接戦を繰り広げた、オレグ・ベルニャエフ選手(ウクライナ)。内村選手が逆転で金メダルをつかんだ時、記者からの「あなたは審判に好かれているのではないか?」との内村選手への質問に対し、横からベルニャエフ選手が「いったん得点が出ればそれは公平な結果。そういう質問は無駄だと思う」と答える潔いシーンが、日本でも話題になりました。
 そんなベルニャエフ選手の邦訳は、「次は僕が勝つ」(朝日)、「僕たちは一生懸命にやっている」(読売)、「僕はウクライナ人だ」(日刊スポーツ)など、ほとんどが「僕」です。
 調べてみると、競泳のマイケル・フェルプス選手(米)も「僕」。必ずしも人種が関係しているわけではなく、ゴルフのタイガー・ウッズ選手も「僕」です。いかがでしょうか。皆さんのイメージとは合いますか?

「俺」と「僕」の違い、専門家に聞く
 「俺」や「僕」は「役割語」の一つ。役割語とは「その言葉を聞くと、どのような人物かをイメージしやすくなる言葉」です。そんな役割語研究の第一人者である、大阪大大学院の金水敏教授(言語学)に話を聞きました。
 金水教授が考える「俺」と「僕」には以下の違いがあります。
   「俺」:マッチョで男らしい・力強い・男性的
   「僕」:おとなしい・知的・インテリ
 金水教授は言います。「例えば『ドラえもん』を想像してみてください。ジャイアンは『俺』、のび太や出来杉は『僕』を使う。ジャイアンが『僕』を使う姿は想像できないでしょう」

 リオ五輪の時のように、最近のスポーツ報道では、その背景にドラマやストーリー性が求められ、メディア側としてもキャラクター性を各選手に与える傾向にある、と金水教授は指摘しています。ボルト選手の場合、その強さはもちろんのこと、陽気でひょうきんなジャマイカ人である親しみやすさも手伝い、「俺」というキャラクターが出来上がっているとのこと。
 全ての選手が一律に「私」と邦訳されては味気なくなってしまうため、一定程度のキャラクター性を与えることは必要だと金水教授は言います。「どの訳し方が正しいとは言えないが、どのように訳されてもそれは『加工された個性』であることに書き手も読み手も留意して、スポーツを楽しむのが良いのではないか」としています。
 海外スポーツに接する際は、選手たちの活躍ぶりはもちろんのこと、各選手の一人称がどのようになっているかに注目してみるのもいいかもしれません。


posted by Cheshire Cat at 01:27| Comment(0) | ことば・日本語