2018年02月28日

「働き方改革」と生産性の問題

「働き方改革」とは、誰の、何のための "改革" なのか?

 担当官庁である厚生労働省のHPでは、「働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現」と、賛否はともかくそれほど奇怪なことが書かれている訳ではない。
 一方、首相官邸HPにある「働き方改革の実現」というページには、例によって、霞ヶ関官僚の "詭弁力" を最高に発揮した「個々にはきれいな言葉を並べながら、全体としては何を言っているのか解らない」と言うか「現実的に意味の有ることは何も言ってない」文章が並んでいる。
 ただ、その中で無視できないのは「働き方改革こそが、労働生産性を改善するための最良の手段」と言い切っていることで、ここまで断定されては検討しない訳にはいかない。

 「労働生産性」を高める具体的な方法としては、大きく次の2つが挙げられる。
 その第一は、イノベーション。まったく新しい、魅力的な製品・サービスといったものを創案し、他に先駆けて事業化することで新たな市場を開拓する、あるいは抜本的・革命的な技術革新を起こして、在来の製品やサービスであってもその生産・提供・消費のあり方をを劇的に変える、といったことで、付加価値=生産性計算の "分子" を増やす方法である。
 現在、世界をリードする先進国において「労働生産性」向上の核心となっているのは、圧倒的にこの「創造性」「イノベーション」である。
 例えば、アメリカ経済の高い生産性を牽引しているのは、アップル、アマゾン、グーグルなどの企業群であるが、そのすそ野には無数の創造的な起業家たちが群がっている。そして、さらにその基盤を形成しているのは、高い能力と意欲をもって世界中から集まる「人材」であり、高い研究・教育水準をもって世界に門戸を広げている大学群と、積極的な起業・創業を許し、サポートする社会・経済体制が、彼等の意欲の現実化を支えているのである。

 「労働生産性」を高める第二の方法は、生産現場の発展途上国への移転や、非正規雇用・派遣社員・外国人労働者を増やすことによって「人件費の圧縮」を図る、すなわち "費用" として把握される投入労働力=生産力計算の "分母" を減らす方法である。
 高度経済成長期からバブル期にかけて進んだ「生産方式の改善」によって、日本の製造業は確かに製品の質、生産効率において、一時世界の頂点に立っていた。
 日本企業の多くは、その後も世界の政治経済の構造的変化を無視して「改善・効率化」に走り続け、小泉政権以降の自民党政権も同様の考え方で労働者派遣法や出入国管理法の積極的な改変(規制緩和)を進めてきた。その結果、今日では自動車産業を中心に完全な「外国人労働者依存」の状態が生じている。
 しかし、生産・管理のIT化が一定のレベルまで進んだことで、同じ手順で同じ製品を作り続ける限り、国内生産の効率化・省力化は限界に近づいてきた。また、中国・インドなどの新興国の生産能力が向上したことで、在来の製造品では競争力も失われることとなった。すなわち、もう "効率的に働く" ことなどでは、日本の労働生産性の向上は困難になっているのである。
 また、このような政策は、若年層を中心に非正規雇用で働く人々の割合の異常な増加と実質個人所得の減少を招いている。雇用労働者の非正規化、残業代打ち切りなどによって人件費を削れば、個々の企業の「見かけ上の生産性」「利益率」は向上したように見えるだろう。しかし、多くの企業で同じことを行えば、結果的に低賃金労働者ばかりが増加して貧困化が進み、将来への不安も加わって消費不況を招き、GDPの成長が止まり、国全体としての生産性は下がってしまう。現在の日本はそういう状態にあるのである。

 今国会で審議中の「働き方改革」なるものは、まさにこれまでの政策の延長・強化に過ぎない。提案されている法案は、まさに「人件費をさらに削るための裏技」と言う他ないもので、国全体の生産性の向上に資することなどあり得ない代物である。
posted by Cheshire Cat at 02:19| Comment(0) | 日本の政治

2018年02月12日

「日本企業、博士使いこなせず?」について

 2月11日の日経電子版に、「日本企業が博士号取得者の採用を増やすと、逆に生産性が下がるとする分析を日本経済研究センターがまとめた」という記事が出た。
 重要な問題提起でもあるので、全文引用の上少し考えてみる。

 記事では、その原因として
 (1)企業の現場で適切な役割が与えられず、博士人材の専門能力が生きていない
 (2)提案力や構想力が乏しく、企業の応用研究に対応できる博士人材が大学で育っていない
という2つを例示している。

 (1)は全くその通りである。
 しかし、「役割が与えられず」などと言っている段階で既に絶望的。本来、管理職も専門職もすべて「役割」なのだが、そこに余計な "上下関係" が入り込んでしまっているのが多くの日本企業の現実である。経営陣が期待してスカウトしても、「新参者が生意気に」とか「博士と部長とどっちが偉いか」などというレベルで "生きていない" のである。日本の企業全体の組織・機構、人事管理における意識・感覚を根本的に変えて行かない限り解決できない問題だろう。

 (2)の後半<応用研究に対応できる人材が育っていない>もその通り。
 だが記事の指摘は極めて皮相的であって、誤解や誤った方向に話を導く危険性もあると感じる。
 筆者自身、かつて民間研究機関に在籍していたときに、文系・理系様々な分野の大学院生と(スカウトの狙いも含めて)面談した経験がある。また、大学に転じてからは若手の教員の公募・採用に多数関わってきた。その過程で度々痛感したことがある。それは、
 「私の専門は "この分野・このテーマ" だから、今更違うことは自信がない(やりたくない)」
と言う院生・若手研究者が大変多く、
 「大学院まで "鍛えて" きたのだから、どんな新しい分野・問題でも取り組む自信がある」
と言う人物が極めて少ないことだった。
 彼等は、「大学院修了、あるいは学位取得など、現代では基礎的能力の証明=スタートラインに過ぎないこと」、「こちらが欲しいのは "能力と意欲" であって 、彼等の狭く未熟な "専門" などではないこと」という最も基本的なことが全く解っていなかった。そして、それは決して「大学・大学院の教育」の問題だけでなく、もっと根の深い「人生観、価値観」の問題、幼少期からの「育てられ方」の問題ではないかと感じられたのである。

 <人材が育っていない>についての話の危険性というのは、財界や政府が常々「 "学者だけの閉じた世界" が問題、企業や官僚出身者を教員にすれば、もっと応用力のある学生が育つ」などと、根拠の無い主張を続けていること。この記事も、大喜びでその傍証とされる可能性があるということである。
 最後に、(2)の前半<提案力や構想力が乏しく>は日本の企業やメディアに特有の「勘違い」。それらの能力が最も必要なのは経営者自身であることを棚に上げて、 "幻の人材" に責を負わせているだけだ。


日本企業、博士使いこなせず? 採用増で生産性低下
日本経済研究センター分析
2018/2/11 20:39日本経済新聞 電子版


 日本企業が博士号取得者の採用を増やすと、逆に生産性が下がるとする分析を日本経済研究センターがまとめた。一人前の研究者とされる博士人材は、海外企業では即戦力への期待も高いだけに意外な結果となった。日本では、企業が終身雇用制などに縛られて人材を使いこなせていない可能性や、大学で企業の研究現場で役立つ人材が十分に育っていないことが考えられるという。

 総務省や日本経済新聞社の調査から分析した。全社員に占める博士号取得者の割合が増すと、1人当たりの売上高などにあたる労働生産性が低下していた。2000年代の大半で同じ傾向だった。

 同センターは(1)企業の現場で適切な役割が与えられず、博士人材の専門能力が生きていない(2)提案力や構想力が乏しく、企業の応用研究に対応できる博士人材が大学で育っていない――などとみている。日本企業の雇用制度では優秀な人材が定着しにくく、大学の研究教育環境も世界に劣るとの見方もある。

 日本では毎年、1万5000人を超える博士号取得者が出ている。博士号を取得しても就職できない「ポスドク」が社会問題になるなか、人材の活用策が改めて議論になりそうだ。


posted by Cheshire Cat at 16:16| Comment(0) | 科学・技術・教育と社会

2018年01月29日

異常に「過去を忘れる」日本人

 最初に、1月29日時点での英国の百科事典サイト ENCYCLOPEDIA BRITANNICA のトップ・ページ(一部)を示す。赤丸で囲った項目を見て欲しい。世界は日本人のように「過ぎたことは、何でも忘れ」はしないことが良く判るではないか。
BRITANICA_20180129.png
 韓国のいわゆる慰安婦問題や中国の南京事件などについて、事実そのものを否定するネトウヨの意見などはどうでも良いのだが、特別に "嫌韓・反中" ではない多くの市民の中にも「過ぎたことをいつまでも!」とか「あまりに執拗な韓国・中国!」といった気分が漂っていることが非常に気になる。
 例えば、日韓合意とは、「過去の戦争時に日本側が韓国(人)の一部女性に対して行った人権侵害行為に関する "賠償請求等" についての国家間交渉」の合意であり、今後、韓国政府は日本政府に対してこの件についての賠償請求等は(不可逆的に!)一切行わない、という極めて事務的な手続きである。

 重要なことは、この手続きには「それらの(人権侵害の)事実を "無かったこと" にする」などという意味は一切含まれていないことである。しかし、そこを多くの日本人が「勘違い」していると強く感じる。
 「では、いつまで謝れば気が済むのだ!」と、日本人の多くが苛立つのだが、「水に流す」とか「無かったことにする」という "思想" は国際社会では一切通用しないことを学ぶべきである。「やってしまったこと」については、 "永遠に謝り続け" 、 "反省の態度を示し続け" なければならない、というのが国際社会の常識なのだと、きちんと知るべきである。

 この「謝る」「反省の態度を示す」ことについても、日本では(土下座○○と言うような)大きな誤解があるように思う。世界的に求められるのは「個々人の態度」などではない。国家として、義務教育段階できちんと教育、世代を越えて過去の負の歴史を認識し続けること、そのような過去を肯定・美化し、正当化するような言説・行動を規制する法律・条例を定め、運用することの二つである。ドイツにおける「反ナチ法」が後者の例であって、ナチスやヒトラーを賛美するような言説・デモは禁止され、強行すれば逮捕される。

 ところが、日本で公的な立場からこの世界の常識に沿った行動をしているのは、常に「アジアの人々に多大な苦痛を与えた過去を反省し・・」と言い続けておられる天皇陛下だけ、と言っても過言ではない。一方で、過去の事実を否定し、正当化するような言説(例えば日本会議系議員らの)が野放しであるばかりか、いわゆるヘイト・デモについても理念法がやっと制定されただけで、事実上放任されている。また、学校教育においても、いわゆる "つくる会" 系の過去を美化する教科書が出現し、それを行政の圧力で広域採択させることが全国で続いている。さらには、従軍慰安婦について事実を歪曲し、偏見を煽るような展示イベントを、公共の文化施設で開催させた例まであるのである。

 今回、韓国の新大統領が述べたこと「再交渉は求めないが、謝罪して欲しい」は、「世界的には当然」のメッセージであり、故に海外のメディアは全く問題にしていないのだが、自民党議員の一部や政府首脳は "激高" して見せ、国内メディアもそれを(いつものように)無批判に垂れ流し、市民の "嫌韓" 感情を煽っている。
 日本軍が、第二次世界大戦中にアジア太平洋地域を侵略したこと、そこでの "活動" の中に、多くの人道に反する行為、国際法・条約に違反する行為があったことは明らかな事実であり、その末裔である現在の日本国民が、今後も「世界で名誉ある地位」に居たいのであれば、そのことを「忘れず」 、二度と繰り返さないように "明示的" に「努力し続ける」義務があるのである。

 南京事件や重慶の市街地爆撃、慰安婦問題などについて、政府自らが経緯を明らかにし、誠実な反省を世界に発信すること。そして、それらの事実を否定しあるいは美化するような言説・行動を正しく規制する法令を整備・公布することが緊急の課題である。それらの法が成立すれば、一部の偏った教科書を公教育で使用することも不可能になる。
 それらを実行してこそ、同じ大戦中に米軍が行った広島・長崎の(戦略上明らかに不必要な)原爆投下や、東京を始めとする市街地(一般市民)への焼夷弾爆撃についても、真に対等の立場でその「非人道性・犯罪性」を問うことが可能になるのである。
posted by Cheshire Cat at 17:38| Comment(0) | 世界と日本