2017年09月08日

前原議員は「おかしさ」を語ったのか、「おかしなこと」を語ったのか?

 ここで問題にするのは、前原氏でも彼の政策でもない。純粋に日本語の表現、下に示すネット記事の「奇妙で異常なタイトル」についてである。

<民進党の新代表、前原誠司さんが語った「格差が固定化されていく社会」のおかしさ>
 このタイトルを見れば、「前原氏が “おかしなこと” を語った」という意味に受け取るのが普通である。
 例えば、<今井○○○氏が語った「一線は越えてない」のおかしさ>といったように。
 「○○さんが語った『 』のおかしさ」とあれば、そこでは、間違ったこと、矛盾したこと、信じ難いことが語られた、としか読めない。そして、語ったのが作家や芸人ではなく「政治家」の前原氏である以上、「おかしさ」というのは否定的な意味にならざるを得ない。

 ところが、記事の本文を読むと全くそんな話ではない。前原氏の政策の重点がこれまでとは違うテーマになったとは書いているが、決して “おかしい” などとは評していない。どうやら、タイトルの「おかしさ」というのは、前原氏が語った現状認識の一部を引用したものらしいのである。
 すなわち、タイトルを
<民進党の新代表、前原誠司さんが語った「格差が固定化されていく社会のおかしさ」
あるいは、
<民進党の新代表、前原誠司さんが語った「 “格差が固定化されていく社会” のおかしさ」
とすれば、記事の内容と完全に一致するのである。

 故意に括弧の位置をずらして前原氏を貶めようとした一種の「見出しテロ」というのなら論外である。だが、News と称する以上一応公共性を自認するメディアの一つ、個人の「ブログ」などではないのだから、そんなことは考えにくい。
 だとすれば、"」" の位置一つで意味が全く変わってしまうことに気付かない著者、そんな原稿をそのまま公開してしまう BuzzFeed News 、それぞれの「日本語表記に対する無知・鈍感・粗雑」に目が眩む。

https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/maehara-0901?utm_term=.cj0m4MyjX#.mgymd24KN

民進党の新代表、前原誠司さんが語った「格差が固定化されていく社会」のおかしさ

民進党新代表が決まった。専門の安全保障を一切語らなかった前原誠司さん。声を張り上げたのは格差是正だったーー。
2017/09/1 14:20
Satoru Ishido
石戸諭 BuzzFeed News Reporter, Japan
posted by Cheshire Cat at 17:02| Comment(0) | ことば・日本語

2016年09月19日

ボルトの一人称は「俺」?「僕」?

 9月18日の Withnews 記事。8月16日の朝日新聞に掲載された、五輪陸上競技の100mを3連覇したウサイン・ボルト選手の "No.1ポーズ" の写真に付けた見出し「俺を超えられるか」を題材に、「俺」か「僕」かと論じた記事である。
 なかなか良い点に注目した記事だと思う。
 しかし、内容は言語学者まで動員しながら最終的に「キャラ」の問題として片づけるなど、あまりにも「軽い話題」扱い、と言うより「臭いものにフタ」扱いの酷い記事である。

 例えば、K教授は「俺」について "力強い・男性的" なイメージで使われるとだけ説明しているが、これはあくまでも "母語話者" である人物が自発的に用いる場合の話である。
 他言語からの翻訳においては、それは訳者による "当てはめ" の結果に過ぎず、そこに一種の決めつけ・差別意識が介入してしまう可能性に触れようとしないのは奇妙である。
 また記者も、タイガー・ウッズだけの例をもって「必ずしも人種とは関係しない」と "断定" しているが、本当にそう言い切れるのだろうか。
 そもそも、ボルト選手が圧倒的な肉体をもって国際大会で勝ち続け、メディアに対するサービス精神も豊かな人物であることは確かだが、彼が特に「男性的」で「陽気」な人物だというのも単なる "決めつけ" に過ぎない。
 役割語についても無条件に肯定的に述べられているが、それが差別や身分格差を助長する面をもつことを無視するべきではない。

 世界チャンピオンの言葉を、街のチンピラもどきの下品な言葉に "変換" する行為には、日本のスポーツ報道に特に著しい選手へのリスペクトの欠如、そして、発展途上国の選手・アフリカ系という人物に対するステレオタイプや差別意識が明らかに現れている。
 そのことへの自覚も自戒も全くない、能天気な記事である。

ボルトの一人称は「俺」?「僕」? しっくりくるのは
…… イメージ作る役割語の活用法

withnews 9月18日(日)8時0分配信


 リオデジャネイロ五輪で、3大会連続3冠を達成した陸上のウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)。メディアがボルト選手を邦訳する際、一人称を「俺」と訳すことが圧倒的に多いのです。果たして、なぜなのでしょうか。なぜ「僕」ではないのでしょうか。(朝日新聞東京編集センター記者・軽部理人)

3連覇のボルト「俺を超えられるか」
 英語での一人称「I」。男性が使っている場合、それを「俺」と訳すか「僕」と訳すか、はたまた「私」と訳すかは、訳者次第になります。
 例えば、8月16日の朝日新聞には、100mで優勝したボルト選手が、ゴールした直後に人さし指を胸の前で掲げ「No.1」のポーズをしている写真が掲載されています。その写真の上には、こう見出しがつけられています。
   「俺を超えられるか」
 見出しをつけた男性編集者(37)によると、ボルト選手の力強さを示すような見出しをつけたかったとのこと。4年前のロンドン五輪の際、ボルト選手の記事に付いた「俺は伝説になる」という見出しが強く印象に残り、今回の見出しに至ったということです。記事の本文中では、一人称は使われていませんでした。
 編集者はこう言います。「『僕』や『私』も考えたけど、ボルト選手といえば『俺』だった。他の言葉は考えられなかった」

調べてみたら、やっぱり多かった「俺」
 ほかのメディアが、ボルト選手の一人称をどのように訳しているのか調べてみました。
 ボルト選手が3大会連続3冠を達成した日、海外メディアによると、ボルト選手は「I am the greatest」と述べています。直訳すると、「俺が最強だ」といったところ。そのコメントに言及のあった社は、記事中で以下のように訳しています。

朝日新聞:「オレは最強だ」
東京新聞:「おれが最強だ」
サンケイスポーツ:「ほら見ただろう。I’M THE GREATEST(おれが最強だ)!」
スポーツ報知:「俺が最強だ! 自分を誇らしく思う」
 「I am the greatest」に言及はありませんでしたが、同じ日の記事で毎日新聞は「俺にバトンが回ってくると、それが金メダルに変わる」としています。やっぱり、多い「俺」。
 ちなみに朝日新聞では、「俺」だけでなく「僕」や「私」訳も登場しています

体操ベルニャエフ選手は「僕」
 もちろん、スポーツ選手の邦訳全てが「俺」というわけではありません。
 体操の内村航平選手と個人総合で接戦を繰り広げた、オレグ・ベルニャエフ選手(ウクライナ)。内村選手が逆転で金メダルをつかんだ時、記者からの「あなたは審判に好かれているのではないか?」との内村選手への質問に対し、横からベルニャエフ選手が「いったん得点が出ればそれは公平な結果。そういう質問は無駄だと思う」と答える潔いシーンが、日本でも話題になりました。
 そんなベルニャエフ選手の邦訳は、「次は僕が勝つ」(朝日)、「僕たちは一生懸命にやっている」(読売)、「僕はウクライナ人だ」(日刊スポーツ)など、ほとんどが「僕」です。
 調べてみると、競泳のマイケル・フェルプス選手(米)も「僕」。必ずしも人種が関係しているわけではなく、ゴルフのタイガー・ウッズ選手も「僕」です。いかがでしょうか。皆さんのイメージとは合いますか?

「俺」と「僕」の違い、専門家に聞く
 「俺」や「僕」は「役割語」の一つ。役割語とは「その言葉を聞くと、どのような人物かをイメージしやすくなる言葉」です。そんな役割語研究の第一人者である、大阪大大学院の金水敏教授(言語学)に話を聞きました。
 金水教授が考える「俺」と「僕」には以下の違いがあります。
   「俺」:マッチョで男らしい・力強い・男性的
   「僕」:おとなしい・知的・インテリ
 金水教授は言います。「例えば『ドラえもん』を想像してみてください。ジャイアンは『俺』、のび太や出来杉は『僕』を使う。ジャイアンが『僕』を使う姿は想像できないでしょう」

 リオ五輪の時のように、最近のスポーツ報道では、その背景にドラマやストーリー性が求められ、メディア側としてもキャラクター性を各選手に与える傾向にある、と金水教授は指摘しています。ボルト選手の場合、その強さはもちろんのこと、陽気でひょうきんなジャマイカ人である親しみやすさも手伝い、「俺」というキャラクターが出来上がっているとのこと。
 全ての選手が一律に「私」と邦訳されては味気なくなってしまうため、一定程度のキャラクター性を与えることは必要だと金水教授は言います。「どの訳し方が正しいとは言えないが、どのように訳されてもそれは『加工された個性』であることに書き手も読み手も留意して、スポーツを楽しむのが良いのではないか」としています。
 海外スポーツに接する際は、選手たちの活躍ぶりはもちろんのこと、各選手の一人称がどのようになっているかに注目してみるのもいいかもしれません。


posted by Cheshire Cat at 01:27| Comment(0) | ことば・日本語

2016年08月27日

英語教育に関する病

 Yahoo Japan が定常的に行っている「意識調査」が、英語教育の "時期" をとりあげている。
http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/life/25082/result
 質問も馬鹿げているが、相変わらず奇妙な(気持ちの悪い)回答傾向である。

Q.子どもの英語教育について、いつから始めるのが良いと思いますか?
「・幼児期(小学校入学前)から」 49%
「・小学校から」 24%。


 合わせると、70%以上がいわゆる「早期教育」論者のようである。見事に洗脳されたものだ。

 面白いのは、幼児期からに賛成する人々の理由の多くが「耳」や「発音」であったり、「国際感覚」だったりすることである。これはそのまま歪んだ「ネイティブ信仰」に繋がっている。
 どうやら、英語を "学ぶ" 目的が、「母語に加えてもう一つの言語によるコミュニケーション能力を正しく身に付けること」ではなくて、「 "アメリカ人のような発音" を鍛えること」になっているらしい。

 これは、コミュニケーション能力が情報の「発信・受信」にかかる "全人格的な能力" であることを、まったく理解していないことによるものだろう。
 情報の「発信」とは、自身の "内なる考え" を整理し、それを論理的に正しく構築し、適切な言葉を選択して外部化すること。「受信」は逆に、示された言葉を正確に受け取り、その "論理" を正しく理解して、自身の思索と対比することである。
 これらの基本的な能力が不十分では、どんなに "学習" しても、言葉は通じない。

 どんなに "発音" が良くても、本当に必要な場面でまったく "英語の通じない" 人物は珍しくない。
 コミュニケーション能力は、幼児期から10代にかけてのすべての「勉強」や日常生活を通じて鍛え、身に付けることしかできず、そしてそれは『母語』でのみ可能なのである。
 その大切な時期に、「ABCの歌」などで浮かれていたら子どもの将来をぶち壊すことになる、ということも解らないのだろう。
posted by Cheshire Cat at 11:23| Comment(0) | ことば・日本語