2016年06月28日

小学校でのプログラミング教育には反対する

 朝日新聞の社説を批判するのであれば、この問題に関する自分の意見も述べるべきであると考えた。

小学校でのプログラミング教育の必修化には反対である。さらに言えば、自由選択科目や課外活動であっても必要ないと考える。

 私自身は大学・大学院とも「文系」の出身であるが、大学卒業後にかなり本格的なプログラミング教育を受け、短期間ではあるがプログラマー・SEとして働いた経験をもっている。よって、「コンピュータは子どもの人格形成や情操に有害」などという偏見は一切もっていない。また、文科省・有識者会議の「プログラミングが論理的思考のトレーニングになる」という意見も否定しない。さらに、中学後半〜高校段階であれば(選択制での)プログラミング教育は必須であると考えている。

 それでも、小学校については反対するのは、以下の理由からである。
 1.子どもの「論理的思考力」を育てることは極めて重要だが、それはまず「日常言語」の中で鍛えるべきである。
 2.なぜなら、それは対話、議論といった人間同士のコミュニケーションの中で、経験的に鍛えなければ本当には身に付かないからである。
 3.そういった機会を与えずに、コンピュータの操作を通じた「論理的思考力」だけを鍛えるのは、知的能力全体の健全な育成にはマイナスであると考えるからである。

 こんなことは、教育についてある程度の知識・経験を有する者なら誰でも知っていることである。にもかかわらず、このような“提言”が出てくる背景が何ともやり切れない。そこには、以下のような動機・論理が透けて見えるからである。
 1.本当に「論理的思考力」の豊かな子というのは、大人から見れば「理屈っぽい子」「煩い子」「面倒な子」である。
 2.そういう子は大人になれば「考える市民」「批判力のある市民」「扱いにくい市民」になる。
 3.だから、人間的に鍛えられた「論理的思考力」などではなく、機械を的確に操作できるだけの“使い勝手の良い”「論理的思考力」をもった“人材”を育てたい。

 もう一つやり切れないのは、この“提言”の裏に隠れた「経済的側面」である。
 朝日の社説では「国や自治体の支援」などと能天気なことを書いているが、もしも全国の小学校で「必修」となれば、膨大な数のPCやタブレットが一挙に必要となる。これはまさに「内需拡大」であり、「IT産業の活性化」そのものである。さらに言えば、景気の低迷で余剰となっているソフトウェア技術者を、生徒指導に苦しむ教員の“ために”派遣する制度、などという話にも繋がるだろう。要するに、学校や子どもを“人質”にとって、産業界に「税金を流し込む仕掛け」をまた一つ作ろう、ということにほかならないのである。
posted by Cheshire Cat at 18:20| Comment(0) | 科学・技術・教育と社会

2016年02月17日

大学の現在、これから

 今、日本の大学は絶対的かつ急激な“少子化”という壁に直面している。多くの地方私立大学が既に恒常的な定員割れに追い込まれ、大都市圏の中堅大学でも志願倍率の低下にともなう平均学力の落ち込みに苦しんでいる。
 大学進学者のいわゆる“学力”をめぐって、やれ分数の演算ができないとか、簡単な熟語も知らないといって大仰に呆れて見せるのは実に不愉快である。18歳まで学校に通わせて、その程度の学力しかつけてやれなかったのである。社会(大人たち)は一致して反省し、その若者たちに謝るべきではないのか。

 それに加えて、日本の大学(教育)の“質”という問題も様々に指摘されている。
 おそらく、高度経済成長の終り頃から、この国では「学問」や「学問を第一に考える人間」に対して、ある種の“揶揄”あるいは“蔑視”という態度をとることが多くなっているように思う。
 そこまで行かなくても、大学に進学する子弟に向かって、アルバイトやクラブ活動の体験の方が重要で、勉強は程々にしておけば良い、などと“助言”する大人が少なくなかったことも残念ながら事実である。
 “大学生活で最も頑張ったこと”という項目は、学生が就職を志望する企業に提出する書類の、定番のような質問の一つである。ところが、「部活もバイトも特に書けるようなものが無い!」と言って悩む学生が出てきてしまうという、馬鹿げた事態が起きている。
 そのような学生に、「勉強、研究を頑張った」ではなぜ駄目なのか、と聞き返すと、まるで虚を突かれたような表情をし、そして失笑するというのが印象的である。
 学生にとって「学問・勉強すること」が大学生活の中で第一位に来ない、自分自身でも評価に値することではないと考えている、というのは、先進国・新興国の中では飛び抜けて“異常”であると言わざるを得ない。

 このような事態はいわゆる文科系で特に顕著なのだが、医学など国家資格(試験)のかかる分野以外では、理工系も例外ではないと感じている。
 理工系では、専門分野が比較的明確であり、学修・研究に費やす時間も(文科系に比べて)相対的に長い。このことが逆に、大学で何を学び、何を身に付けるのか、という主体的な認識・自覚に欠け、受け身の態度に終始する学生が多いことにつながっているように感じる。
 特定の知識や専門技術を身に付けるのであれば、大学も専門学校も違いはない。大学で学ぶことの意義は、本来、狭義の専門分野を超えて、下記のような総合的な“力”を鍛える(訓練する)ことにあるのだと思う。
  ○広い視野と高い倫理観をもつこと
  ○自身で情報を集め、精査する力をもつこと
  ○その上で自分自身で考え、論理を組み立てる力をもつこと
  ○その考えを、相手に“伝わるように”きちんと発信する能力をもつこと

 他の先進国の大学、新興国でも国のトップクラスの大学を卒業した人々と接していると、ここに挙げた4項目の全体にわたって高い能力を身に付けていることを痛感させられる。そして何よりも、大学での自身の学修・研究(の努力と成果)について、明確な自信と誇りをもっていることを感じる。

 日本のトップ企業の多くが、留学生以上に外国大学出身者の採用を増やしている現実がある。そこで問題になっているのは、上に挙げたような基本的な“知的体力”であり、“学ぶ”ことに立ち向かう姿勢・態度である。これに対して、日本の大学が直面しているのは、社会全体を覆う“反知的”な空気であり、根本的な“教育力”の不足からくる“未熟な卒業生”という現実なのである。

 カリキュラム、学生との接し方を中心に、教育組織・システムの根本的な改革が必要となってきている。企業の求める人材、グローバル化、などという役所の思いつき的な要求に流されて、英語の授業を増やせば良いなどという状況ではないのである。
posted by Cheshire Cat at 04:35| Comment(0) | 科学・技術・教育と社会