2016年09月19日

ボルトの一人称は「俺」?「僕」?

 9月18日の Withnews 記事。8月16日の朝日新聞に掲載された、五輪陸上競技の100mを3連覇したウサイン・ボルト選手の "No.1ポーズ" の写真に付けた見出し「俺を超えられるか」を題材に、「俺」か「僕」かと論じた記事である。
 なかなか良い点に注目した記事だと思う。
 しかし、内容は言語学者まで動員しながら最終的に「キャラ」の問題として片づけるなど、あまりにも「軽い話題」扱い、と言うより「臭いものにフタ」扱いの酷い記事である。

 例えば、K教授は「俺」について "力強い・男性的" なイメージで使われるとだけ説明しているが、これはあくまでも "母語話者" である人物が自発的に用いる場合の話である。
 他言語からの翻訳においては、それは訳者による "当てはめ" の結果に過ぎず、そこに一種の決めつけ・差別意識が介入してしまう可能性に触れようとしないのは奇妙である。
 また記者も、タイガー・ウッズだけの例をもって「必ずしも人種とは関係しない」と "断定" しているが、本当にそう言い切れるのだろうか。
 そもそも、ボルト選手が圧倒的な肉体をもって国際大会で勝ち続け、メディアに対するサービス精神も豊かな人物であることは確かだが、彼が特に「男性的」で「陽気」な人物だというのも単なる "決めつけ" に過ぎない。
 役割語についても無条件に肯定的に述べられているが、それが差別や身分格差を助長する面をもつことを無視するべきではない。

 世界チャンピオンの言葉を、街のチンピラもどきの下品な言葉に "変換" する行為には、日本のスポーツ報道に特に著しい選手へのリスペクトの欠如、そして、発展途上国の選手・アフリカ系という人物に対するステレオタイプや差別意識が明らかに現れている。
 そのことへの自覚も自戒も全くない、能天気な記事である。

ボルトの一人称は「俺」?「僕」? しっくりくるのは
…… イメージ作る役割語の活用法

withnews 9月18日(日)8時0分配信


 リオデジャネイロ五輪で、3大会連続3冠を達成した陸上のウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)。メディアがボルト選手を邦訳する際、一人称を「俺」と訳すことが圧倒的に多いのです。果たして、なぜなのでしょうか。なぜ「僕」ではないのでしょうか。(朝日新聞東京編集センター記者・軽部理人)

3連覇のボルト「俺を超えられるか」
 英語での一人称「I」。男性が使っている場合、それを「俺」と訳すか「僕」と訳すか、はたまた「私」と訳すかは、訳者次第になります。
 例えば、8月16日の朝日新聞には、100mで優勝したボルト選手が、ゴールした直後に人さし指を胸の前で掲げ「No.1」のポーズをしている写真が掲載されています。その写真の上には、こう見出しがつけられています。
   「俺を超えられるか」
 見出しをつけた男性編集者(37)によると、ボルト選手の力強さを示すような見出しをつけたかったとのこと。4年前のロンドン五輪の際、ボルト選手の記事に付いた「俺は伝説になる」という見出しが強く印象に残り、今回の見出しに至ったということです。記事の本文中では、一人称は使われていませんでした。
 編集者はこう言います。「『僕』や『私』も考えたけど、ボルト選手といえば『俺』だった。他の言葉は考えられなかった」

調べてみたら、やっぱり多かった「俺」
 ほかのメディアが、ボルト選手の一人称をどのように訳しているのか調べてみました。
 ボルト選手が3大会連続3冠を達成した日、海外メディアによると、ボルト選手は「I am the greatest」と述べています。直訳すると、「俺が最強だ」といったところ。そのコメントに言及のあった社は、記事中で以下のように訳しています。

朝日新聞:「オレは最強だ」
東京新聞:「おれが最強だ」
サンケイスポーツ:「ほら見ただろう。I’M THE GREATEST(おれが最強だ)!」
スポーツ報知:「俺が最強だ! 自分を誇らしく思う」
 「I am the greatest」に言及はありませんでしたが、同じ日の記事で毎日新聞は「俺にバトンが回ってくると、それが金メダルに変わる」としています。やっぱり、多い「俺」。
 ちなみに朝日新聞では、「俺」だけでなく「僕」や「私」訳も登場しています

体操ベルニャエフ選手は「僕」
 もちろん、スポーツ選手の邦訳全てが「俺」というわけではありません。
 体操の内村航平選手と個人総合で接戦を繰り広げた、オレグ・ベルニャエフ選手(ウクライナ)。内村選手が逆転で金メダルをつかんだ時、記者からの「あなたは審判に好かれているのではないか?」との内村選手への質問に対し、横からベルニャエフ選手が「いったん得点が出ればそれは公平な結果。そういう質問は無駄だと思う」と答える潔いシーンが、日本でも話題になりました。
 そんなベルニャエフ選手の邦訳は、「次は僕が勝つ」(朝日)、「僕たちは一生懸命にやっている」(読売)、「僕はウクライナ人だ」(日刊スポーツ)など、ほとんどが「僕」です。
 調べてみると、競泳のマイケル・フェルプス選手(米)も「僕」。必ずしも人種が関係しているわけではなく、ゴルフのタイガー・ウッズ選手も「僕」です。いかがでしょうか。皆さんのイメージとは合いますか?

「俺」と「僕」の違い、専門家に聞く
 「俺」や「僕」は「役割語」の一つ。役割語とは「その言葉を聞くと、どのような人物かをイメージしやすくなる言葉」です。そんな役割語研究の第一人者である、大阪大大学院の金水敏教授(言語学)に話を聞きました。
 金水教授が考える「俺」と「僕」には以下の違いがあります。
   「俺」:マッチョで男らしい・力強い・男性的
   「僕」:おとなしい・知的・インテリ
 金水教授は言います。「例えば『ドラえもん』を想像してみてください。ジャイアンは『俺』、のび太や出来杉は『僕』を使う。ジャイアンが『僕』を使う姿は想像できないでしょう」

 リオ五輪の時のように、最近のスポーツ報道では、その背景にドラマやストーリー性が求められ、メディア側としてもキャラクター性を各選手に与える傾向にある、と金水教授は指摘しています。ボルト選手の場合、その強さはもちろんのこと、陽気でひょうきんなジャマイカ人である親しみやすさも手伝い、「俺」というキャラクターが出来上がっているとのこと。
 全ての選手が一律に「私」と邦訳されては味気なくなってしまうため、一定程度のキャラクター性を与えることは必要だと金水教授は言います。「どの訳し方が正しいとは言えないが、どのように訳されてもそれは『加工された個性』であることに書き手も読み手も留意して、スポーツを楽しむのが良いのではないか」としています。
 海外スポーツに接する際は、選手たちの活躍ぶりはもちろんのこと、各選手の一人称がどのようになっているかに注目してみるのもいいかもしれません。


posted by Cheshire Cat at 01:27| Comment(0) | ことば・日本語

2016年09月03日

「女子高生たたき」をめぐる毎日新聞の記事

<貧困>「貧乏人らしく」女子高生たたきの大誤解
毎日新聞 9月3日(土)9時0分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160903-00000016-mai-soci

 丁寧かつ品の良い記事であり、書かれている内容にも異論はまったく無い。
 しかし、一体この記事は「 "誰" に向けて書かれた」ものなのだろう。
 「・・女子高生たたきの大誤解」というが、中心となって叩いている人間たちは別に "誤解" などしていないからである。

 彼等(醜悪な片山議員も含めて)がやっていることは、単なる「ヘイトスピーチ」であり、曲解こそあれ "誤解" などそこには存在しない。あるネットメディアが「捏造」までして "叩き" に加わったことからも、それは明らかであろう。
 最終的にこのメディアは、「記者の "事実誤認" ・・」と謝罪して記事を削除したが冗談では無い。「正しく伝える意志は有ったが間違えた」のなら "誤認" だが、最初から何の根拠も無いデタラメを「事実のように書く」のは全くの "捏造" であり、単なる悪意の発露=ヘイトスピーチそのものでしかない。
 こういう連中に対してとるべき態度は、法的措置を含む断固たる「反撃」であって、「 "誤解" を解く」ことなどではないのは、例えば在特会やその仲間の物書きたちの言動・行動からも明らかではないか。
 実際、女子高生叩きのネット言説の一部には「在日」といったことばも使われていたのである。

 おそらく、この毎日新聞の記事は「その他多くの一般市民」に訴えることを目指したのだと考えられる。そうであれば、この見出しは極めて不適切である。なぜならば、この見出しの意味が瞬間に理解できるのは、既にネット上で悪質なバッシングが行われていることを良く知っている人に限られるのであり、元々酷い偏見はもっていない・大きな "誤解" もしていない、NHK の放送を見て少し同情している、といった程度の新聞読者は、いきなり "大誤解" などと書かれても良く解らないからである。
 それらの一般読者に訴えるのであれば、「『貧乏人らしく』はいじめ!」「女子高生たたきに流されるな!」等と書くべきだったのではないだろうか。
posted by Cheshire Cat at 15:20| Comment(0) | 報道・ジャーナリズム