2016年07月08日

「余命宣告」に関する記事について

 朝日新聞のネット版に出た「進行がんの余命宣告は必要か」なる記事を読んで、文字通り "目が点" になった。詳しくは後で述べるが、何よりもここで紹介されている医師の異様な "傲慢さ" と唯我独尊ぶり、そして、その人物の話をただ "拝聴" して垂れ流すだけで、ジャーナリストとして最低限の疑問や批判のかけらも持ち合わせない記者、に対してである。

 この医師曰く、宣告された患者の中に「がっくり肩を落としたり、ぼろぼろと涙を流したりする。ショックでうつ状態になる人もいた」のだそうである。そこで質問。
 それなりに権威があり信頼する "医師" という存在から死期を宣告されたら、ショックを受け、哀しみ、抑鬱状態になるのは当然である。そのように反応する人が居ることのどこに、何の問題があるというのだろうか?

 またこの医師は「一方的な余命宣告は患者を傷つけるだけ」と主張する。それでは訊くが、「(死期が近いことを知らされずに)死んでしまった患者は傷ついてない」と、何を根拠に断定するのだろう。
 臨終の間際に「早く告げてくれていたら、やれたこと、やっておきたいことがあったのに・・」と深く悲しみ、傷ついている患者がいるとは、全く考えないのだろうか?
 それに、そもそも「一方的でない余命宣告?」というのがあるのなら是非教えてもらいたいものだ。

 さらにこの医師は、余命宣告の期間が「結果と一致しない」と言っているのだが、「最悪だと○○、様々な治療が上手く効いてくれれば□□まで期待できる・・・」といった幅をもたせた説明をするのが通常であろう。「○ヶ月です」などと断定的に宣告する医師が居たらそれこそ問題ではないのか。
 一体どのようなデータをもとに "3割" と言うのだろう。記者はそのデータの詳細をきちんと読み、理解したのだろうか。

 最後に、もう笑うしかないのは「最善を期待し、最悪に備えましょう」という "お言葉" である。
 誰だって「普段からそう思って」日々生きているのである。そんな当たり前のことを偉そうに "教示" できる人物こそ、何とも奇怪な存在と言う他は無い。そこで吹き出さなかった記者の頭脳と、このような記者を抱える朝日新聞の将来も大変に心配である。

 念のために、
 この記事のもとになったインタビューが遥かに長時間、多岐にわたるものであり、医師が実はもっともっと奥の深い、医師として人間として考え、悩み抜いた上での意見を真摯に語ったのだとしたら・・・。それが、能力不足の記者のために、このようなひどい要約記事になってしまったのだとしたら・・・。この医師には申し訳なく思う。しかし、この記事を読む限りにおいては私の見解は変わらない。

進行がんの余命宣告は必要か
石塚広志
2016年7月6日06時00分


 進行がんであることがわかると多くの患者は医師にこう聞くそうだ。「あと、どれくらい生きられますか」。日本医科大武蔵小杉病院の勝俣範之教授(腫瘍(しゅよう)内科)は「そこで医師は『実は○カ月です』と言ってはいけない」と余命宣告の廃止を提唱する一人だ。
 かつて勝俣さんも患者の強い希望で伝えることはあったそうだ。だが、悟りきったような聖職者、あるいは度量のありそうな社長や政治家であっても、具体的な余命期間を告げられると、がっくり肩を落としたり、ぼろぼろと涙を流したりする。ショックでうつ状態になる人もいたという。
 勝俣さんは「一方的な余命宣告は患者を傷つけるだけ」と指摘する。さらに医師の告げる余命は当てにならないというデータもある。勝俣さんが、自身を含む医師14人の担当した進行がん患者75人の余命予測を検証したところ、実際の期間と一致したのは約3割にとどまったという。
 医師がいくら「不確かだ」と強調しても、患者は数字にとらわれる。
 勝俣さんは余命宣告の代わりにこう言うそうだ。
 「最善を期待し、最悪に備えましょう」

http://www.asahi.com/articles/ASJ7561JPJ75UBQU009.html?ref=wmailm_0708_21

posted by Cheshire Cat at 20:08| Comment(0) | 報道・ジャーナリズム

2016年07月01日

理科離れより恐ろしい“社会科崩壊”

 ある時期から、学生の「社会科的知識・教養」が急激に低下・崩壊し始めたと感じている。
 恐ろしいのは、それをまったく問題にしないどころか、歓迎しているのかもしれない人々の存在である。

 具体的には、第一に最も基礎的なレベルの知識の欠落である。
 特に酷いのは20世紀以降の現代史。例えば、第二次世界大戦について、戦死者が最も多かった国は?、日本本土(現在の国土)に武力攻撃を加えたのはどの国の軍隊?、当時の日本軍には、いわゆる日本民族以外の民族出身の人々も軍人として参加していたが、彼らは何者だったのか?、などといった、ほとんど常識レベルの質問にも答えられない、あるいは奇想天外な回答をする学生が珍しくなかった。
 戦後史になると、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争がどのように始まり、終った(休戦した)のか、日本はそれらの戦争にどのように関わり、どんな影響(プラスとマイナス)を受けたのか、などについても惨憺たるものであった。
 この、そもそも何も知らないという状況は現代の世界についても同様である。
 例えば、国民1万人当りの公務員数では、日本は主要先進国の中で最低に近いのだが、ネット上のデマを鵜呑みにして「日本はもっと役人を減らさなければ」などと言う。市町村という「基礎自治体」についても同様で、日本だけが異常に合併を繰り返した結果極端に巨大化・少数化してしまっていること、他の先進国では人口100人・200人の村など決して珍しくなく、市町村の数も遥かに多いこと、などを全く知らない。
 さらには、トヨタが世界有数の自動車メーカーであることは(流石に)知っていても、日本国内で生産されているのは全体の半分弱に過ぎないこと、そして、国内生産の相当部分を支えているのは、日系人という外国人労働者であることも正確には知らない。

 悪口や文句を言いたいのではない。
 現代史や現代世界の知識が極端に欠けているのは、要するに高校までの歴史教育・地理教育が避けて(逃げて)きたことの結果であり、彼らは被害者と見るべきだからである。
 メディアは定期的に「今どきの若者の“学力”」をネタにする。分数の計算だの四字熟語の読みだのが“如何にできないか”を嘲笑し、囃し立てる。政府は「理科離れ」が問題だと騒ぐ。
 だが、民主社会を支える最も基本は、独立した自由な信念と意志をもった市民の存在である。そのために不可欠な「社会科的知識・教養」が危うい状態であることを、何故だれも問題にしないのだろうか。
 むしろ恐ろしいのは、この現実をまったく問題にしない、もしかすると歓迎しているのかもしれない人々の存在である。もしも今回の参議院選挙で、18歳〜24歳あたりの票が圧倒的に与党に集まる、あるいは棄権が多数に上るようだったら、それは彼らの“勝利”を意味するのではないだろうか。
posted by Cheshire Cat at 07:31| Comment(0) | 科学・技術・教育と社会